訳しづらい(その2)engagé
社会参加的な、社会参加型の(伝わらない)
政治参加的な、政治参加型の(伝わらない)
アンガジュマン(伝わらない)
コミットメントした(まぁまぁ伝わる)
色々考えた末に
「社会にコミットメントした」
と訳出しました。
政治と書くと強すぎる。かといって政治色も出したい(女性解放運動にちなんだ内容なので)。むつかしいですね。
art engagéは、文脈的に「社会参加型アート」が一番しっくりきました。
社会参加的な、社会参加型の(伝わらない)
政治参加的な、政治参加型の(伝わらない)
アンガジュマン(伝わらない)
コミットメントした(まぁまぁ伝わる)
色々考えた末に
「社会にコミットメントした」
と訳出しました。
政治と書くと強すぎる。かといって政治色も出したい(女性解放運動にちなんだ内容なので)。むつかしいですね。
art engagéは、文脈的に「社会参加型アート」が一番しっくりきました。
Poèsie in situを訳したいのだが、ずっと詰まっている。
in situ (ラテン語):本来の場所に、その位置において、自然位置で、体外に取り出さない状態について言う(仏話大辞典)
本来の環境で、原位置で[地学・植物学において研究・採集が本来の環境で行われることを指す](ロワイヤル仏和中辞典)
イン‐サイチュ:《その場所で、の意》細胞が生体内の本来あるべき場所で機能している状態であること。また、その状態で行われる実験や化学反応を指す。インシトゥ。(goo辞典)
現場(ウェブサイト)
ふむふむ。よくわからん。
文学的な意味ではどのように訳出すればいいのか?
「自然位置の詩」、「原位置の詩」、「現場の詩」と直訳しても、全く通じない。
内なる詩
内なるポエジー
または「内在する」?
意訳になってしまいますが、こんな感じでしょうか?
近日帯同したケースで、ビジターから10年カードへの切り替えが成功した。
もう15年ほど前になるが、私個人の学生→PLへのカード切り替えに1年以上費やした経験から、このケースもきっと長丁場になるのではと思っていたのだが、提出したのが某日木曜午後、その翌週の火曜朝一番に県庁からOKの連絡が。多分、コロナのために外国人が激減し、扱う滞在許可証のケースも激減しているのだろうが、週末を除くと平日わずか2日でのOK判定は最速で驚いた。
「彷彿とさせる」が普通の使い方だと思っていた。
しかし、納品後のフィードバックで「彷彿させる」と変更になっていたので調べてみたところ、「彷彿させる」が正解で目から鱗が落ちた。
(最近の記事では、朝日新聞さんのネット記事でも「ほうふつとさせる」という記載になっていた)
(2)「~を髣髴する」のように、「~を(ありありと)眼前に見せる」の意味で使う場合は「と」は入りません。これは「表情を再現する」「表情を暗示する」などと同じ語構成です。「表情を再現とする」「表情を暗示とする」と言わないのと同様です。
https://www.ytv.co.jp/michiura/time/2009/11/post-44.html
なるほど。日本語はまだまだ奥が深い。
仕事の9割ほどがサッカーやスポーツ関連だった時代がある(現在はほぼ0)。
サッカーの仕事は、著名な日本人選手がフランスのクラブに所属しているかどうかがネックになるけれど、時代は十数年前と較べ、ガラリと変わり果ててしまった。
デジタル化とともに不況にあえぐ新聞や雑誌が経費削減のために海外の通信員を切るのは当たり前だ。某社で働く知り合いも料金体系を変更させられてしまい窮地に陥っている。そして通訳や帯同といった物理的な移動を伴う仕事は勿論、コロナ禍のために激減した。
私にはまだ翻訳があるのは、本当にありがたいことだ。
いつか、どこかの雑誌のインタビューで、「好きなTV番組は?」と尋ねられたロベール・ピレスが答えていた。
「M6のドキュメンタリー番組が好きだ」
毎週日曜のゴールデンタイムに、M6(民放6チャンネル)では『ゾーン・インテルディット(禁止ゾーン)』に続き、『アンケット・エクスクリュジヴ(独占取材)』というドキュメンタリー番組が放映されている。売春や違法ドラッグ、凶悪犯罪などの特集を組んでいるが、その中でも6月末に放映されたダルフール紛争(スーダンのホロコースト)の特集では、紛争で無人と化した無数の村々や、野ざらしにされた山積みの死体を隠しカメラで捉えた世界初の映像が流され、国際社会を震撼させた。
7月1日(日)放送の『アンケット・エクスクリュジヴ』では、「スタジアムにおける新型バイオレンス」というテーマで、フランス当局の悩みの種となっている過激派・独立派サポーターの実情を暴露した。
きっと、ドキュメンタリー好きのピレスもこの番組を見たはずだ。
なぜ、サッカーのスタジアムだけが暴力行為の巣窟となっているのか。
昨年のフランスサッカーリーグ(アマチュアも含める)では、合計800件以上の暴力行為が摘発されている。これに対し、バスケットのフランスリーグでの暴力行為は年間わずか3件のみ。ラグビーのスタジアムにおける暴力行為に及んでは年間ゼロであった。
ある社会学者は、「戦争のない平和な現代において、メディア効果を持つサッカーのスタジアムは、社会における『暴力』という『必要悪の場』としての機能を果たしている」と話す。その背景には、サッカー選手の華やかなショービジネス的側面、権力の象徴としてのサッカー・マネーの偏在と、後を絶たない汚職や八百長スキャンダルといった要因があるのだろう。全て、暴力とは縁のないラグビー界には存在しない側面だ。
『アンケット・エクスクリュジヴ』のイントロを飾ったのは、バロンシエンヌ対マルセイユ戦の平凡な風景だった。試合は特に大きな衝突が起こることなく終了したが、問題は試合後のスタジアムの外で起こった。悪名名高いマルセイユの「ウルトラ(過激派)」サポーターを大人しく帰途につかせるため出口で彼らを待っていたのは、完全武装した特別機動隊の面々だった。機動隊を見るなり興奮したウルトラたちは、待ってましたとばかりに攻撃的な態度をみせた。それに呼応するかのように特別機動隊が反撃を開始する。フランス北部の小さな町バロンシエンヌがカオスに陥ろうとした瞬間、仲裁に入ったのは、マルセイユのウルトラサポーターのリーダー、ラシッドだった。
ラシッド――。
彼はかつて、ウルトラよりも過激な「インデペンデント(独立派)」サポーターの一員だった。暴力沙汰で刑務所に送られた経験もある。しかし、刑務所から出たラシッドは、突然マルセイユのクラブに呼び出され、そのまま雇用された。彼の任務はずばり、彼の権限により5,500人のウルトラサポーター集団「ウィナーズ」を統制し、スタジアムでの過度な暴力行為を未然に防ぐことだった。ラシッドはウルトラのメンバーからリスペクトされ、彼の言動に背く者は1人としていない。
このように、アソシエーション(協会)として登録されているサポーター集団は、警察当局やクラブの努力により、ある程度のコントロールが可能となっている。しかし、かつてのラシッドも所属していたインデペンデントは、あらゆるコントロールを逸脱し、スタジアム内外における脅威となっている。
ナンシー対リヨン戦。
試合当日の数時間前、普段は穏やかなフランス北東の都市ナンシーの市街地を、どこからともなく出現したリヨンのインデペンデントが雄叫びを挙げながら闊歩していた。ウルトラはチームユニフォームやキャップ、マフラーなどを装着しているのに対し、インデペンデントの服装は概して普段着であること、そしてウルトラはバスで集団移動するのに対し、インデペンデントは自家用車で個々に移動するのが大きな特徴だ。
その名も示す通り、どのサポーターグループにも所属しない新型ホーリガン、インデペンデントの目的は、チームのサポートなどではない。サッカーの試合という格好の 「暴力の場 」で、思う存分暴力行為を働くことだ。要するに、彼らはサッカー観戦のためではなく、暴力のためにスタジアムに足を運ぶのだ。
フランスサッカー界に吹き荒れるバイオレンスがクローズアップされはじめたのは、皮肉にも1998年のW杯でフランスが優勝を飾った直後だった。フランス国旗のトリコロールにならって生まれたチームカラーのスローガン 「ブラック・ブラン・ブール(黒人・白人・アラブ人) 」の団結がフランスを狂喜の渦に巻き込んだその日、人種・年齢を問わず、知らないもの同士が肩を抱き合い、杯を交わし、夜遅くまで優勝の陶酔を味わった。人種差別というフランスの社会問題の解決策はサッカーにあり、と誰もが思い込んだ。しかしそれはあまりに短絡的だった。優勝の夜の歓喜と同じく、一時的な幻想に過ぎなかったのだ。
W杯優勝から現在までの約10年間で、サッカーはフランスで最もメジャーなスポーツとなり、フランスリーグ・1の観客動員数はうなぎ昇りに爆発した(+50 %)。しかし、フランスプロサッカー協会は、この事実を手放しに喜ぶことができなかった。観客動員数の上昇は、いとも簡単に暴力沙汰の増大に直結してしまったのだった。
フランスがその事実をはっきりと認識したのは、昨年11月のUEFA杯、パリSG対テル・アビブ(イスラエル)の試合後、スタジアムの外で起こった悲劇を通じてのことだった。敗戦したパリSGのインデペンデントが、報復を目的に、1人のイスラエル人サポーターを追いかけ始めたのが事の発端である。数人の興奮が周囲を巻き込み、インデペンデントの数は瞬く間に増大した。そこを偶然通りかかった私服警官がイスラエル人をかばい、近くのマクドナルドに逃げ込んだ。その間、私服警官は「私はポリスだ!」と、何度となく連呼したらしいが、興奮していたパリSGのインデペンデントたちは、誰も聞く耳を持たなかった。
悲劇は、最悪の結果に向かって連鎖反応を起こした。
私服警官がアンチーユ諸島出身の黒人であったこと。警察であることを示す腕章をつけていなかったこと。近くをパトカーで通過した同僚警官に助けを求めたにも関わらず彼らに無視されたこと。そしてこの黒人警官が庇っていたのがイスラエル人であったこと。逃げ込んだのが「ジハード(聖戦)」の敵、アメリカを象徴するマクドナルドだったこと・・・
サッカーにおける暴力行為の根深さが、フランスの社会問題である人種差別に直結していることをはっきり物語っていると言えよう。
インデペンデントたちはやがて、マクドナルド店舗を破壊し始めた。店舗内になだれ込んだインデペンデントに包囲され、自身の身に危険を感じた私服警官は、自己防衛のためにやむを得ず、集団に向けて発砲した。そして、ひとりの青年の命が犠牲となった。
この現状に対し遺憾のコメントを残した当時のサルコジ内相(現フランス大統領)は、即座に過激派サポーターをコントロールすることを目的とした法律(スタジアム入場禁止リスト、スタジアム内の司法措置の常設など)を制定した。
こうした措置により、警察によるスタジアムまでのサポーターバス誘導、行き過ぎた表記を伴う横断幕のチェックに始まり、持ち物チェック(投棄を目的とした機能しない携帯電話や発炎筒の没収)が入念に行われることとなった。そして、ハイリスクの試合においては、スタジアム内に設置された10台以上の監視カメラによって、サポーターの行動が随時録画保存されている。
しかし、先述したように、こうした措置で制御が可能なのは、正式に登録済みの公式サポーターのみだ。インデペンデントは、監視の厳しいスタジアム内および周辺での暴動ではなく、警察の目の届かない遠隔地で暴動を繰り広げるのだ。
この特集番組の中で最も震撼したのは、リヨンとナンシーのインデペンデントのリーダー同士が電話で連絡を取り合う映像だった。場所と時間、大体の人数を決め、試合直前に互いのサポーターが一同に集合するために申し合わせる。その話し口調は非常に友好的で、敵対するチームに対する威嚇的な態度は見られなかった。
2人の目的はたったひとつ、警察当局の目を盗んで、「死者・重傷者が出ない程度で」思う存分 「ファイト(戦闘) 」をすることなのだ。ファイトの趣旨は、こん棒などの武器を持たず素手で戦い合い、どちらかのインデペンデント集団が尻尾を巻いて逃げるまで衝突するという非常に原始的なものだ。その間、長くても数分間。もちろん、警察のサイレンが聞こえると同時にファイトは中断され、インデペンデントたちはクモの子を散らすように退散する。
番組内でフレッド(28)と名乗ったリヨンのインデペンデントのリーダーは、「暴力はサッカーの一部だ」と明言する。12針縫ったという後頭部の傷跡を誇らしげに見せながら、感動を交え、遠い目でファイトシーンの思い出の数々を語る。彼が初めてファイトに参加したのは、16歳の時、アウェーの対マルセイユ戦だった。
しかし、信じられないことにフレッドは、普段は障害者福祉員として社会に貢献する一児の父なのだ。フレッドは「同僚や顧客の信頼を失わないように」と、週末に何をしているか周囲には内密にしている。インデペンデントの構成メンバーは、社会的地位を持たない失業者や、「ゾーン」と呼ばれる郊外の低所得地域の移民ばかりという認識は、もう通用しない。その中には、現役の経営者や弁護士も含まれるらしい。番組の中では、どうして平凡な一般人が、週末のみインデペンデントに豹変するのか、その辺が明確に提示されなかったのが残念だ。先出した社会学者の言うような「必要悪としての暴力」なのか?
マルセイユでのホーム戦を翌日に控えたある日、ウルトラリーダーのラシッドは100人ほどのサポーターを一同に集め、試合前のアニメーションを指導した。その大半は若者だ。かつて、サッカーのスタジアムを「暴力の場」として捉えていたラシッドだが、今は「スポーツ教育の場」としてのポテンシャルを見出している。ここに、暴力払拭に奔走するフランスサッカー界の希望が隠れているのかもしれない。
ああ、こういう子が学校にいたなぁ、と思う。
頭が良くて、先生からの評価も高く、家もまずまず裕福。運動神経も良く、かっこいい。でも気が弱いから、いじめっこグループの格好の標的にされてしまう。
2010年南アフリカワールドカップで、フランス代表から孤立し、チームの内部崩壊の一因とされたヨアン・グルキュフ(24、リヨン)は、まさにこの“優等生”タイプだ。
すぐれた論理学者で、かつて数学教授だったという父のクリスティアン・グルキュフ(56)は、27歳のときに、現在指揮官(03年シーズンより)のロリアンで、選手兼コーチとなった。当時地方リーグだったロリアンをわずか4年で2部に昇格させるなど、早々に数学の知識を生かしたインテリ監督としての頭角を現す。
そんな父に後押しを受けてサッカーをはじめたグルキュフは、文句なく、フランスサッカー界のサラブレッドだ。
フランス代表もU17からの常連で、A代表入りするや否や、メディアからは「プチ・ジダン」と命名された。おまけに映画俳優顔負けの丹精な甘いマスクを持ち、趣味は読書。サッカー界にはエゴの強い選手が多い中、性格は控えめで真面目。とにかく、非の打ち所がない。打ち所がないからこそ、かえって目立ってしまった。だから、「出る釘は打たれ」たのかもしれない。
ワールドカップ前から、チーム内の不協和音は少なからず話題になっていた。大会直後にフランスサッカー連盟から解雇され、労働裁判所でやりあっている最中のレイモン・ドメネク前監督のエキセントリックさにかき消された感はあったが、ワールドカップ前の代表親善試合から、ボランチのグルキュフにパスを出さないアネルカとリベリーがいた。
ボールタッチのできないボランチは、グループリーグ初戦ウルグアイ(0‐0)で完全に無力だった。次戦メキシコ(0‐2)では、アネルカとリベリーがドメネク監督に意見したことが因し、グルキュフはベンチスタートとなってしまう。それが原因かどうかは定かではないが、最終戦の南アフリカ(1-2)が開催されたナイズナ行きの移動飛行機の中で、グルキュフとリベリーが大喧嘩をしたらしい。そして南アフリカ戦の前半26分で一発レッド退場を食らったグルキュフ。彼にとっての初舞台となったワールドカップは、レッド退場のシーンだけ「プチ・ジダン」らしい一面を見せたという、皮肉な結果に終わったのだった。
そのグルキュフが、代表チームの主力からどうやら陰湿ないじめを受けていたようだという報道が始まった。“カイド(ヤンキー)”というあだなのついたリベリーを筆頭に、エヴラ、アネルカ、ガラスの4選手は、皮肉まじりにグルキュフを“ニュー・スター”と呼び、グルキュフとすれ違うたびに後頭部を引っぱたいていたという。
アフリカ大陸出身の代表選手たちにイジメを受けた、生粋のサラブレッド。
“移民”“貧困”という代名詞に加え、大会前に未成年売春容疑で事情聴取を受けたリベリーを筆頭にしていたのも一因した。実際、メディアの反応もしかりだった。
グルキュフは、ワールドカップでの散々な結果にも関わらず、大会直後に鳴り物入りでボルドーからリヨンに移籍した。移籍金はクラブ史最高額の2200万ユーロ(約26億円)。なかなか結果が出せずにいた11月、擁護派と批判派に分かれた報道合戦が繰り広げられていた中、突然、06‐08年シーズン時代のチームメイト、マルディーニが、グルキュフを痛烈になじった。
「グルキュフのミラン移籍は100%失敗だった。彼のここでの問題は、彼の態度だった。彼の自己管理方法は、インテリジェントではなかったね。ここでプレーしていたとき、チームに貢献したい素振りを見せなかった。すぐにイタリア語を学ぼうとしなかった。チーム戦略については、彼は練習しようとしなかった。時間にもルーズだった。いろんなことがあったよ。ここでは話せないようなことがいろいろ。でも彼は、自分が何をしたのか分かっているはずだ。プレー中も、全力を尽くさなかった。ミランでは、彼より才能がないけれど、全力を尽くしていた選手がリスペクトされていた。そのうち、彼はチーム内で“異質なもの”になった」
この後も、ガットゥーゾがグルキュフをいじめていたとか、若かったグルキュフはけっこう飲み歩いていたとか、色々な噂が出たが、父クリスティアンやボルドー会長に擁護され、グルキュフ批判は鎮静化したと思われていた。
しかし、膨大な移籍金にも関わらず、なかなかチームに貢献できないでいるグルキュフに業を煮やしたリヨンのベルナール・ラコンブ(ラオス会長の特別顧問兼スポーツディレクター)が4月15日、やや批判的なコメントをしたことで、リヨンでもチームになじめていないグルキュフの“実態”が明らかになった。
「グルキュフについて、もちろん多少心配しているに決まっているだろう。シーズンを通じ、彼はチームにもたらしてくれるはずのものより少しのものしかもたらしてくれなかった。彼はそれについて目に見えて苦しんでいる。周囲がもっと彼を安心させ、周囲からヘルプが来るのを待っているような印象を受ける。でも彼自身がもっと周囲に働きかける必要がある」
チームメイトのバストスもこんなコメントを残している。
「グルキュフは早く来るし、遅く帰る。本当のプロだ。でも実を言うと、僕は本当の彼を知らない。あまり話をしないし、自分の殻に閉じこもっている。キネ(運動療法士)と話しながら、ひとりでストレッチをやっている。静かに過ごしたいみたいだ。僕が言いたいのは、努力すべきなのは彼だということ」
内向的で受身がちなグルキュフは、代表やミラン時代だけでなく、リヨンでも浮いた存在なのだった。ワールドカップ当時の代表主将エヴラに言わせれば、「ヨー(ヨアン)の声を聞いた事がない。あいつと話をするには、トゥラランを通さなきゃいけない」ほどの無口だという。ひょっとして、どこへ行ってもなじめず、いじめの噂が絶えないのは、その病的と言っていいほどの内向的な性格と無口さから来ているのではないだろうか? グルキュフのコミュニケーション能力に問題はないのだろうか?
ボルドーでの成功は、無口な彼がサッカーのプレーを通じてチームメイトとコミュニケーションを取れていたことに由来するのだろう。ブラン監督という優秀な指揮官に恵まれたのもラッキーだった。事実、代表監督がブラン監督になってからは、“いじめ”のニュースは途絶えた(エヴラ、アネルカ、リベリーが代表出場停止の懲戒処分を受けたため、招集されていなかったという理由もあるが)。
4月24日には、ケーブルTVのサッカー番組に出演したグルキュフが、「ピッチの上では内向的ではいけない。でも今の僕は、責任を負う事を怖く思っている。あの(ボルドー)時代に対し、今の僕は、プレーの自発性をすっかり失い、率先してプレーしなくなった。それに、プレーに“喜び”を取り戻さなければいけない。それが僕を前進させてきたから」と赤裸々に語った。
この独白で何かが吹っ切れたのかもしれない。
4月27日、リーグ第32節の対モンペリエ戦は、先発の座をエデルソンに譲り、ベンチスタートとなったグルキュフ。この“ショック療法”が効果を成したのか、2-2の試合終了間際87分にゴミと交代したのち、インからわずか3分後、リサンドロからのヘディングを押し込み、劇的な決勝点を決めた。これでリヨンは3位に浮上し、首位マルセイユに5点差に詰め寄った。 “スッフル・ドゥルール(いじめられっこ)”グルキュフがプレーの“喜び”を取り戻し、サッカーを通じてチームメイトとコミュニケーションを取れるようになれば、フランスリーグ終盤戦が面白くなるのは確実だろう。
シーズン終了を待たずに行われた4月29日のエリック・ゲレツ監督の退団発表は、マルセイユ迷走の予告だったのかもしれない。
今季、8年目にしてやっとリヨンがチャンピオンの座から脱落したフランスリーグ・1で、最終節まで首位争いの一角を担っていたマルセイユ(以下OM)。結局3位に甘んじたものの、欧州レベルの好成績(UEFA杯ベストエイト)に加え、ゲレツ後任のデシャン新監督就任が早々に決定するなど、来季の巻き返しに向けて幸先の良いシーズン終了となった。
・・・と、誰もがそう思っていた。
しかし、来シーズンに向けた移籍市場の最重要時期に、マルセイユ人事に一触即発の大事態が発生した。
ゲレツ監督退団のニュースが囁かれ始めた今年3月頃、OMの舞台裏では、ひとつのバトルが繰り広げられていた。ゲレツ監督の契約の見直しを声高に主張していたOMディウフ会長に対し、クラブ主要株主ルイ=ドレフュスが首を振らなかった、というのが当初の認識だった。そうこうしているうちに、ゲレツ監督はサウジアラビアのクラブ、アル・ヒラルより高額オファーを受けた。OMがゲレツ監督にやっとオファーを出した3月中旬の時点で、アル・ヒラルとの交渉はもう後に引けないところまで進展してしまっていたらしい。好成績を以ってアピールし続けてきたゲレツ監督にしてみれば「なんで今更?」といったところだろう。マルセイユを去る前に「ここに残りたかった」と悔しさを激白したゲレツ監督に同情したファンや同僚からは、OM経営陣の対応の鈍さへの批判が相次いだ。
ところが、ゲレツ監督退団から2ヵ月後の6月17日、今度はディウフ会長が突然の退団の憂き目に遭うことで、マルセイユに激震が走る。主要株主ルイ=ドレフュスの“独裁政治”とも言うべきこの決定に、マルセイユ市長までもが「私に何の連絡もなしにこんな決定をするなど、言語道断」との公式コメントを発表、地元の政治を巻き込んだ一大事に発展したのだ。早々に来シーズンの青写真を決めたいデシャン監督も遺憾の意を表した。
そして、ディウフ会長が『ジューヌ・アフリック』紙のインタビューの中でクラブ内情を赤裸々に語ったことで、先のゲレツ監督退団に伴う会長と主要株主の(表向きの)対立構図の影には、実は主要株主ルイ=ドレフュスの側近(ルイ=ドレフュスグループのゼネラルディレクター、ジャック・ヴェイラ)の思惑が働いていたことが判明。「ルイ=ドレフュスは、周囲に踊らされている単なる“操り人形”でしかない、可哀想な人間なんだ」というのがディウフ会長の概ねの主張だった。事実6月17日、ふたりの離別の舞台となったチューリッヒでの会見後、ルイ=ドレフュスは号泣したという。
こうして低迷していたクラブ改革を成功させたゲレツ監督だけでなく、人間性とマルセイユ愛あふれるクラブを目指したディウフ会長を失ったことで、ファンの怒りは頂点に達した。しかし、その翌日18日に、民法TF1局の報道部長ジャン=クロード・ダシエ氏の就任がほぼ決まったこと(6月23日正式就任)で、その手腕への評価は賛否両論であるものの、事態はとりあえず収拾に向かうかと思われた。
しかし、“OMお家騒動”はここでは終わらなかった。
指名を受けたものの、あまり気乗りのしないダシエ氏の気ままな思いつきなのかどうなのか、新会長候補は、契約書に署名をする直前に、ひとつの“絶対条件”を提示した。
その条件とは、ジダンの代理人ミグリアッチョの片腕で、フランク・リベリー、サミール・ナスリなどの大物選手の代理人でもあるジャン=ピエール・ベルネを自分の右腕としてOMに入閣させるというものだった。
しかしこの人物は相当の曲者で、マルセイユの、いや、フランスサッカー界の“汚点”としてOMクラブ史に不名誉な名を轟かせているのをご存知だろうか。というのも、16年前の1993年、当時のベルナール・タピOM元会長が有罪判決を受けた“OM八百長事件”で、同様に有罪となったOM元ゼネラルディレクターなのだ!この事件が原因でうつ病にかかり、家庭は破綻。94年にFIFAよりサッカー関連職務からの永久追放処分を受け、人生のどん底を経験したベルネだが、わずか2年後の96年、FIFAは、具体的な裏づけをすることなく処分を撤回。それから更に3年後の99年、フランスサッカー協会は、犯罪歴のある人物にライセンスを与えないという内部規定を何故か無視して、ベルネに代理人ライセンスを付与する。
サッカー界の上層部における、ベルネ復帰に向けた一連の内部操作が相次いだこと自体、全く不可解としか言いようがないが、ベルネが実はデシャン監督の代理人で、OM監督就任の裏で奔走した人物であることも露見し、メディアの“ベルネ叩き”が始まった。
激しい批判の中、週末にも決まるだろうと思われていたダシエ氏の会長就任は持ち越しに。全ての移籍交渉が宙ぶらりんとなり、業を煮やしたデシャン監督が暗に退任の可能性を示唆することで圧力をかけただけでなく、ディウフ元会長の片腕だったスポーツディレクター、ジョゼ・アニゴも退任を示唆するなど、マルセイユは混沌に陥ったのだった。 結局、ベルネ氏がダシエ氏のオファーを丁重に断り、ダシエが“絶対条件”を撤回して新会長に就任したことで、デシャンもアニゴもクラブに残留し、何とか全ては元のさやに納まった。しかし16年前の“悪魔”の目を覚ましてしまったマルセイユの来シーズンが、暗雲のスタートにならないことを祈りたい。
スタンダールとサッカー観戦はいかが?
とにかく、品がある。サポーターズカフェらしくない。
スタンダール大学の仏文の学生にとっての聖地、その名も「カフェ・スタンダール」。カウンターの上に飾られた19世紀仏文学の巨匠の肖像画が見守る中、著書『赤と黒』を読むという悦楽を味わったのは10年前のことだ。お洒落なメガネのオーナー、フィリップはあのころのままだ。ところが店内はOM(マルセイユ)カラーの「水青と白」が隅々にまで増殖している。
24年前にオーナーになったフィリップは、かつての常連客だったスタンダールに敬意を表し、1世紀以上続く店名を継承した。「でも彼の作品は読んだことないよ」と豪快に笑う。
「OMカラーに染まり始めたのは、93年の欧州CLがきっかけさ。あの日、店の前の道路を勝手に通行止めにして、みんなでサッカーしながらOM優勝を祝ったんだ。警察も何も言わずに傍観してくれたから、お礼にビールを振舞ったよ」
昨年11月4日のリーグ第13節、グルノーブル対OM(0-3)でも逸話を作った。ここから徒歩で10分足らずのグルノーブルのホームスタジアムまで「OMサポーターバス」を出すというフィリップの夢は、治安の問題上、当局から却下された。わざわざ30分かけてバスを隣町へ移動させ、本場マルセイユからやってきたバス集団と合流、厳戒態勢のもとスタジアムに到着するまで、結局2時間以上も費やしたとか。
カウンターの上から、あの頃と変わらないまなざしを向けるスタンダールが傍観するのは、コーヒー片手に文学談義をする学生ではなく、ビール片手にサッカー談義に燃える忠実なOMファンたちの愉快な姿だ。ごひいきのチームの成績にご満悦なのか、スタンダールの顔がちょっと上機嫌に見えた。
どれもシナリオは同じだ。
未承認のサッカー学校で、コンペが開催される。そこにやってきた“代理人”を名乗る人物が、「お宅の息子さんにはとてつもない才能がある、欧州の名門クラブを紹介する」と近づき、その家族に渡航費・滞在費と銘打って大金を請求する。第二のエトオを夢見、天国にも昇る気分で欧州の地を踏んだ直後、いくつかのクラブの入門テストを受けるものパスできず、そのうち自称代理人はドロン(テストさえ受けないまま置き去りにされるケースも)。やがて少年を襲うのは“不法滞在”の地獄の日々だった…
このようなサッカー詐欺の犠牲となったアフリカ出身の若者を世話するため、パリに「フット・ソリデール」協会が設立された。協会では、毎年フランス国内で200人以上の若者を保護し、当事者の刑事告訴手続き、フランスの滞在許可申請、里親さがし、就職先の斡旋や就学、さらにはプロチームへの入門テスト参加に向けたヘルプなどを行なっている。大半は17歳~18歳のティーンエイジャーだが、中には13歳の未成年も含まれるという。
どうしてこのような詐欺が横行し、なぜたくさんの犠牲者が出ているのか。その理由はいくつか考えられる。
まず第一に、自国のサッカー連盟より厳しく取り締まられている欧州クラブにとって、若いアフリカ人選手を呼び寄せて入門テストを受けさせるのが非常に困難であるという事実がある。まず選手の当該国に位置する大使館に2ヶ月の滞在ビザの発行を申請するが、その選手の往復航空運賃を負担するのが大前提である。もしも選手が16歳以下の場合、選手の親権者も同伴させ、滞在中の生活や仕事の面倒も見なければならない。そして入門テストにパスした場合は即座に契約、にもかかわらず契約期間中に才能が開花しなかった場合は、サッカー以外の就職の道を提供する義務がある。
1970年から2005年まで、ナント(フランスリーグ1)のスポーツディレクターであったロベール・ブジンスキー氏によれば、かつてまだ育成センターがなかった時代、フランスのプロチームも、上記のような費用負担や煩雑な手続きを避けるため、自称代理人が連れてくる飛び入りのテスト生を受け入れていたという。もちろんクラブ側には、犯罪に加担しているという認識はこれっぽちもなかったろう。クラブ側が判断基準にしていたのは、その選手の才能、別の言い方をすれば、その選手がやがてたっぷりの移籍金を捻出するだけの逸材かどうか、その点のみだ。
そうなのだ。たった一握りのケースだが、サクセスストーリーとなった場合、クラブにとっても、代理人にとっても、選手にとっても、膨大な報酬が待っているのだ。ヌーシャテル・ザマックス(スイス1部)に入団したとあるアフリカ人選手は、CFバーゼル(スイス1部)を経て、3年後にトッテナム(イングランド・プレミアリーグ)に移籍するまでに、価値が実に100倍以上に膨れ上がったという。
つまり、非常に貧しいアフリカの地では、プロのサッカー選手になるということは、貧困から抜け出す“最後の砦”であるという認識が高い。そして、詐欺にひっかかるのは、概してその地区では「けっこうサッカーが上手い」ことで有名な少年の家族だ。少年たちはみな口をそろえて、「詐欺の話は聞いたことがある。でも自分には才能があると思っていたから、まさか詐欺だとは思わなかった」と話す。サッカー・ドリームを夢見ながら、無心に練習にはげむ少年たちの弱みを利用した、極めて卑劣な手口だと言える。
最後に、借金をしてまで大金を工面した貧しい家族や親族からのプレッシャーがある。もう手ぶらで国に帰ることは許されない。パリ・サンジェルマンへの入団を約束されたにもかかわらず、フランス入国直後にパリ郊外のホテルで置きざりに遭った少年は、サッカーとは程遠い生活をしながら、自分の食事を減らしてまでもお金をためて、自分の名前の入ったチームユニフォームを作り、家族に送った。だから母国では犯罪が露見しない。だから新たな犠牲者が増えてしまう。 凡人には理解できないほどの巨額の金が動くサッカービジネス。その偽りの輝きに群がる自称代理人と夢見るサッカー少年。その華やかさに誰もが目を眩ませている限り、この悪循環の鎖が断ち切られることはないのだろう。